中勘助

 これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠まったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境めに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒しさにひきかえて落葉松のしんを噛む蠧の音もきこえるばかり静な無風の状態がつづく。  この島守の無事であることを湖の彼方の人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには毎夜ともす燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。この人は昔村が街道筋にあたって繁昌した頃の御本陣のあととりだが、時勢の変遷や度かさなる村の災厄のため落魄して今はここでも小さいほうの数に入る一軒の家のあるじにすぎないけれど通り名だけはもとのまま「本陣」と呼ばれている。本陣は村じゅうでいちばん人がいいといわれるとおりおそらく国じゅうでも最も善良な人のひとりであろう。その善良朴直のゆえに私は心からこの人を愛する。性来、特に現在甚だ人間嫌いになった私にとってもこの人が島へくることは一尾の鱒が游いできたような喜びを与える。